雑記

__blurry_のおぼえがき

11/7

できたこと

  • ランニング
  • 荷造りと搬入
  • 窓の寸法を測る
  • 部屋の寸法を測る

雑感

ALL NIGHT LONG

 久しぶりにクラブに行った。DJはアシッドを中心にプレイするGONNO。

 とにかくクラブという空間がいい。知らない人しかいなくて、空間は広く、人の顔も見えないほど暗く、フロアを取り囲む巨大なスピーカーからはダンスミュージックだけが延々と流れ続ける。できることと言えば踊ることだけ。その尖り方を求めてクラブに通っているという気がする。

 単一の機能しか持たない空間は、それゆえに人を一つのことに没頭させる。クラブでも映画館でも図書館でも自習スペースでもジムでも、あるいはラブホテルでも。なんでもいい。今の自分は多機能であることをむしろ集中を削ぐ厄介なものと感じているのだが、クラブにはそういったdistractionを惹起するような要素がなく、とても澄んでいて居心地がよかった。

 ……のだが、肝心のプレイがあんまり合わなかった。GONNOのプレイといえば、ハウスもテクノもディスコも、あるいは新鮮なリスニング感覚を持つ音源も全部使って、一つの流れに纏め上げていくことに定評があるのだが、今日はひたすらにゴリゴリのテクノばかりをかけ倒していた。久しぶりのパーティでそういう気分だったのかもしれないが、個人的には彩りを欠いていて全然乗っていけなかった。前はこういう曲をかけてフロアを狂わせていたのだけれど。

 そういうわけで踊りながらもずっと眠くてぼんやりしていたし、実際途中でラウンジで丸まって眠っていたのだが(そういうことをしても危険な目に遭わないのがこのクラブのいいところ)、途中一時間ほどハウスに流れた時間があり、そこで一気に目が覚めた。「今日は踊ることに専念しよう」と決めていたのでほとんどShazamは使っていない。ただひたすらに一人で踊った。

 ……とはいえ、やっぱりどうしてもこれは知りたいという曲もいくつかあって、5曲だけ調べた。以下に並べる。

 四曲目の郷愁を誘うリリカルなピアノが良い。残りの曲は家で聴いても全然心が動かされない。あの感動はどこに行ったんだ?

今日

 昼まで寝てから活動開始。家のCDと本を新居に搬入し、様々な寸法を測った。以前搬入に使った段ボールを折りたたんで回収し、また組み立てて実家のラックと本棚の中身を詰める。父親の部屋に放置されていた自分のCDを回収する。明日は自家用車の中身も回収する。自分の痕跡を少しずつ消し去っていく。

 これを見た。

 Mdou Moctarがみのミュージックに取り上げられるだけの知名度を持っていることにびっくりした。コメント欄を見るとたくさんの人が言及していて、意外に根強い支持があるのだな……と思ったが、Matadorから出してるようなアーティストが無名と考える方がおかしい。Bandcampで知ったアーティストはマイナーと考えてしまいがち。

 ちなみにMdou Moctarがアルバムをリリースしている西アフリカのレーベルSahel SoundsはBandcamp Friday限定で全カタログをNYPにしている。同じくデザートロックで評価の高いLes Filles de Illighadadなども投げ銭で落とせる。覚えておくと役立つこともあるかもしれない。

sahelsounds.bandcamp.com

良いツイート

最後の1コマに強い恍惚が宿っている。

"錯覚誘う絶妙リターン"のキャプションが余計に"錯覚"を誘う。

 覚えさせた言葉が「オウム語」になる、という遠未来に必ず訪れる死別の話から「晩ご飯」という現在の話に引き戻すところがいい。

楽しみなアナウンス

www.hanmoto.com

genkishobo.exblog.jp

聴いたもの

Kanye West - My Beautiful Dark Twisted Fantasy

 家から掘り出されたのだが聴いた記憶がほとんどなかった作品。ピッチで10点、2010年代を代表するアルバム……ということでここ数日はこの作品に取り組んでいた。私はカニエ(Ye?)の熱心なファンでもなければヒップホップの動向も追っていないので、以下はぼんやりとした印象論となる。

 一言で言えば、「反ヒップホップ的な音楽性を指向したヒップホップ」に尽きる。

 ヒップホップの音楽的な美学とは何であるかと考えると、まずは「ビートのタイトな/抑制的な構築美」であるように思う。90年代イーストコースト、ATCQJ DillaNujabesなどのヒップホップレジェンドのビートに共通するのは、サンプルでも打ち込みでも生演奏でも、とにかく少ない音数でカッチリと固められ、一つのオリジナルな美学の元に構築されていることであると思う。タイトであることはコアなヒップホップの必須条件だった。

 しかしこのアルバムはそうではない。壮大なストリングスが随所に登場する。"POWER"や"Hell Of A Life"には70年代ロックのフックがほとんど不自然な形でねじ込まれている。"Blame Game"におけるAphex Twinの引用はあざといとしか言いようがない。"Runaway"後半部はストリングスにギターソロまで登場する。90年代にオルタナが台頭して以降、ロックの世界においてすらギターソロは数を減らしたものを。
 そうやって聴いていくと、このアルバムは全然ヒップホップ的要素を持っていない。過剰で、壮大で、引用のマナーはめちゃくちゃである。しかし、それこそがカニエの狙いなのではないかと思う。

 カニエが意図したのは、「一つの構築美に回収されない」ことではないだろうか。タイトさ、コアさこそがヒップホップであるという教義を強く意識しつつ、そこに回収されないものを指向すること。ヒップホップマナーの美をAとするならば、意識の中でAとĀの美学を同時に走らせること。そのような形でヒップホップと非ヒップホップを楽曲の中に並立させ、ヒップホップの拡張可能性を提示すること。それがこのアルバムの意図ではないかと感じた。ゆえにこれはヒップホップではなく、同時に強烈にヒップホップである。

 はじめに聴いたとき、正直なところなんて壮大で鬱陶しいアルバムなんだろうと感じていたのだが、それはクールでタイトなヒップホップの対偶としての在りようであると気がついてからは、そのやかましさこそがクールに感じられる。ただうるさいのではない。ヒップホップという音楽を知悉しているからこそ可能な知的操作の結果、こういう音になったということが強く伝わってくる。"Who Will Survive In America"なんかは本当に天才的だと思う。

 そこに気がついたのは、Injury Reserveの今年の作品を先に聴いていたからだと思う。

 Injury Reserveはヒップホップのことを枠組みというか、素材としか思っていない。そのマナーに則って制作をするのでなく、そのマナーをどうねじって面白い形を作るかという、一段上からのアプローチが取られている。それを2010年代にこのクオリティで達成していたカニエはすごいとしか言いようがない。

読んだもの

www.albizia-jewelry.com

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www.sapporo-posse.com

webronza.asahi.com