ひと昔前という感じのコテコテのレゲトンサウンドなのだが、肉体的なビートの上にプリセットそのままらしい初音ミクの冷たいボーカルが乗ることで、サウンドの中に強烈なコントラストが生じ、他にはない神秘性を獲得している。that same streetとかkinoue64とか最近になってボーカロイドの声質の神秘性を強調するようなサウンドは増えてきた感じがある(後者は164 "memory"以降の感性もあるにせよ)。
記事のリンクは載せないが、知名度のある音楽リスナーがkurayamisaka - kimi wo omotte iruを「大の男がこんな物語を考えているのはキモすぎる」と評していたのを数か月前に目にした。そのことに対する激しい怒りが月に1回くらいフラッシュバックしてくる。マチズモと女性性の崇拝のキメラで、今一番見苦しい"オタク"の物言いだし、百合というジャンルとその発展を支えてきた作家に対しても極めて失礼だと思う。
別にこの人に限ったことではないが、音楽リスナーならびに制作者の中でも、女性性をやたらと崇拝しているような人が散見されるのがこのところしんどい。結局のところ人間を性別でしか見ておらず、一人の人間としてリスペクトできていないということだし、一人ひとりの異なる個体が異なるものを作り出しているアートというものに長く触れていながら、そういう考え方になってしまうのはとても残念だなと感じた。
宇多田ヒカル新曲。"君に夢中" "One Last Kiss"のA.G.Cookプロデュースということで、Hyperpop以降のエモーショナル・鮮やかな音使いながらも洗練された記名性の強いサウンドを予想していたのだが、実際に聴いてみたら全然違うものが出てきてびっくりした。
そもそも「宇多田ヒカルをA.G.Cookがプロデュースした」という印象自体が裏切られている。ピアノの一音一音のテクスチャーが磨き抜かれたハウス系のサウンドは、A.G.Cookのサウンドとしては控えめすぎるが、宇多田ヒカルのサウンドとしてはエレクトロニックな洗練がなされすぎている。ここでは宇多田ヒカルとA.G.Cookの作家性が対等にぶつかり合い、どちらが欠けても成立しない絶妙なバランスの音が生まれていると感じた。
B-Moreサウンドだとかいう話はもう散々なされているので措いておくとして、YouTube広告でこの曲のフック("What's your ETA What's your ETA")が流れてきた時、なんだかものすごくつまらない楽曲のように感じて驚いたのだが、その理由が上記のアウトスケールの妙味にあるのではないかと考えている。
この曲の特徴は何かと言えば、Fの音の執拗な連打だろう。イントロからアウトロまで鳴り続けている粗いホーンはFの音しか鳴らさないし、メロディラインの起伏もフックも、とにかくFの音を基点としてスケールを上り下りしている。こうしたFの多用とスケールへの印象付けがあるからこそ、フックの"What's your ETA"で登場するF#のアウトスケールが強烈な印象を残すという仕掛けになっている。
このアウトスケールにはちゃんと伏線がある。"답답해서 그래"の箇所で、私も読めないので指定するとAメロの1節目、"No, you better trust me"の次の箇所で、バックのエレピがF#のコードを弾いて緊張感をもたらし、Fに着地して解決する瞬間がある。このF#→Fという下りによって解決させたコードを逆に使い、緊張した状態でリスナーを宙ぶらりんにしているのがフックである。これに気がついた時には本当によくできている曲だと感動した。
最近はレコードショップの入荷情報をよく見ている。エクスペリメンタル/民族系ならArt Into LifeとかMeditationsがメインで時々ReconquistaとかShe Ye Yeあたり、クラブ系はnaminoharaとNewtoneあたり。というのは、一人で聴いていると一人で聴いているなりの狭いものばかり手に取ってしまう気がしたから……というか実際にそうなっているから。
去年くらいまでだったら自分で掘り進めて自分で良し悪しをジャッジするのが最上だと言っていただろうが、その時にはあまりフィットしなくても、一旦レコメンドを信頼して買ってみて、ゆっくりと向き合うことで面白さに気がついたという経験がだんだんと増えている。そうであれば、自分でしっかりと掘るのは当然のこととして、他人のレコメンドにとりあえず乗っかってみるというのも全然ありだと思うし、実際そのことで聴ける音楽の幅は広がっている。しばらくはそういう感じでやってみようと思う。
以下の作品なんかはまさにその例でとても面白かった。
Luis Alberto Spinettaの後期バンドで中核を担ったというマルチプレイヤーMono Fontanaのファースト。アルゼンチン音響派の名盤との触れ込みにつられて購入。
Mono Fontanaを聴き始めたのはセカンドの"Cribas"からで、水のように心地よく流れるアンビエント的音楽性の印象が強かったのだが、再生した途端怒涛のようなサウンドが流れ出してひっくり返ってしまった。ジャズとアルゼンチンフォルクローレを基調としながらも、フィールドレコーディングやクラシックのオーケストレーションも取り込んだ独特の語法で奏でられるサウンドで、かなり集中して聴いていてもそこで何が起きているのかがほとんど把握できない。
個々の音色の解像度に極端な開きがあることが、全体としての把握を難しくする一因かもしれない。民族音楽らしいパーカッションや笛、ドラム、あるいはウッドベースといった音はかなりリッチな鳴りをしているのだが、一方でキーボードやシンセストリングス、シンセサックスの音色は80年代の機材でも使っているようなぺらっぺらの音をしている。これらの音がどう整理されているのか分からない組み合わせで、しかも目まぐるしく主役を交代しながら奏でられるため、アンサンブルの把握が難しくなっている(もしくは把握させないような構造になっている)。
何にせよ、押し寄せてくる圧倒的な音世界をただひたすらに浴びるという体験は本当に久しぶりで新鮮だった。今後長く付き合いながら少しずつこの作品を紐解いていけたらと思う。
Pino Palladinoとの共作"Notes With Attachments"で知られるアメリカのギタリストBlake Millsの最新作。カントリーを基調にしつつ、巧みな楽器の配置によるアレンジの豊かさが楽しめる一枚。
現代においてギターの音色やプレイというものはあらかた出尽くしているという印象があり、後は音楽性の組み合わせ方だったり、様式の中でどのように100点を取るかというディテールの詰め方だったりがリスニングのフォーカスになっているのだが、ここでのBlake Millsのギタープレイは滋味に溢れ、かつとてもフレッシュで、まだギターも全然やれるなと思った。どの曲も良いのだが、ハイライトはやはり4曲目"Skeleton Is Walking"。