出来たこと
- 早起き
- ラジオ体操
- ランニング
- ゴミ出し
雑感
眠気
今日は一日ずっと眠く、全く頭が働いていなかった。睡眠不足なのかそれ以外の要因なのか。
犬の愛について
犬の「無償の愛」なるものを私は全く信じていない。二十余年生きてきて、様々な人間模様があったなかで、私をはじめに見限ったのが犬だったからだ。それがたとえ自業自得だったとしても。
まだ小学生のころ、長期の休みに入ると、私は必ず遠地に住む祖母の家に数日泊まりに行っていた。そこは過疎とか衰退とか高齢化とか、とにかく地方の行く末を指す言葉が全て詰まったような土地だったけれど、そこには優しい祖母がいたし、私はその何もなさ、その土地にあるものはなんでもアクセスできる規模の小ささが好きだった。
土地のメインストリート(といっても狭い二車線)のそばに経っている祖母の家は住民の散歩ルートになっていて、いろんな人が毎日家のそばを通った。そして通るついでに祖母に声をかけて軽く歓談していった。金井さん(仮称。本名はもう覚えていない)とチワワもその一組だった。
金井さんは祖母と喋るのが好きで、立ち寄れば20分は軽く話し込んでいた。そしてその間はチワワのリードを放して好きにさせていた。そうしても逃げ出していかないくらいにはチワワは金井さんに懐いていた。
チワワはとても人懐っこかった。引っ込み思案で祖母の背中にくっついていた私に、チワワは勢いよく駆け寄りじゃれついてきた。私はとても臆病だったし、当時は犬などほとんど見たことがなかったので駆け寄ってくるチワワをどうしたらいいか分からず、ただただ逃げ回った。チワワは追いかけ、私は逃げた。金井さんはそれをとてもおかしそうに見ていた。「栞と遊びたいのよ」と教えてくれたが、このすばしっこくて小さい獣との付き合い方が私には全然分からなかった。手を出せば絶対に噛まれると思い込んでいて、近づくなんてとても出来なかった。それでもチワワが私を求めていることはなんとなく分かって、ちょっとだけ嬉しかった。チワワは追いかけ、私は逃げる、そういう付き合いも悪くないかと思っていた。そうして三日に一度ほど、金井さんが来るたびに私とチワワは追いかけっこをした。ゴールデンウィークに、夏休みに、シルバーウィークに。
翌年の春、再び祖母の家を訪れた。やはり金井さんはやってきて、あのチワワを連れていた。今年も追いかけてくるかと内心楽しみにしながら、私は身構えた。しかし、チワワはそうはしなかった。手綱を放されても、飼い主のそばにそっと控えていた。私がそこにいないかのように透明な目をして。チワワの脚の速さを見越してあらかじめ距離を取っていた私は肩透かしを食い、どうして追ってこないのかとチワワを見つめたが、チワワは主人の足元から動かなかった。お行儀よくおすわりをして、こちらの方など見向きもしなかった。金井さんと祖母はお喋りを始めた。私は二人からちょっと離れたところにすべなく突っ立って、終わらない長話に途方に暮れていた。話はいつまでも終わらず、チワワもそこを動かなかった。胸が締め付けられるように苦しく、ひどく寂しかった。
その時のことは数日引きずったとはいえ、その土地を離れる時にはもうすっかり忘れてしまっていたが、今振り返れば、チワワは私を見放したのだろう。どれだけじゃれついても、愛を差し向けても、求めたようには愛を返さない私を。私は当時愛は無限だと疑わない幼時であったし、自分がどのように振舞っても向こうは都合よく解釈して愛してくれると思い込んでいた。しかしはた目から見れば私はチワワを愛しているようには一切見えなかったろう。そしてそれは半ば当たっていた。私に言い訳する余地はなかった。
犬の愛は見返りを求めるし、当然のこと有限である。それが無限に見えるのは、可愛らしい犬動画が可愛らしいのは、それだけの愛を飼い主が犬に惜しみなく、伝わる形で注いでいるからである。注がれる愛に犬は応え、愛されなければ愛される場所に向かう。ただそれだけのことである。
だから私は犬の愛を信じない。あの時チワワから受けた傷はまだ私の胸にあり、仲良くなった人が、不意に透明な目をしてそっぽを向くまぼろしを見せては、私の胸を凍てつかせる。
良いツイート
— No Context Humans (@HumansNoContext) 2021年6月19日
天使のはねの横にせんべいにも羽にもなれなかった「みすてないで」という商品があった pic.twitter.com/x4b6UFs5MQ
— 年寄りの石 (@owaruchannel) 2021年6月20日
劇スの露崎まひるを見ていると「大道寺知世によって"誰かに恋して愛して大事にする仕方には色々ある""報われずとも幸せになれる"と教えてもらった時の救われた感じ、でもそんな知世ちゃんのあり方は同時にヘテロ世界の都合の良いレズビアン表象でしかないと思う時の苦しみ」がちょっと成仏するのよな
— 水上文🍅🍅🍅🍅🍅 (@livingdead312) 2021年6月21日
アイデンティティ pic.twitter.com/C4RNUkTK13
— 安納 (@unknown_ers) 2021年6月10日
保存してなくて、
— 芦名勇舗 (@ASHINA_ashina) 2021年6月20日
戻るボタン押して、
データ全部飛んだ。
終わった。
そう、始まり。#restart
This is not that uncommon in Thailand (I've been in a house while this was happening, it's scary as hell), unfortunately. This is why we're studying the relationship between elephant and human behavior there, and why the conflict is such a major concern. photo: R. Phungprasopporn pic.twitter.com/9Wgj3plP5x
— Josh Plotnik (ดร. โจชัว พลอท์นิก) 🐘 (@CCCAnimals) 2021年6月20日
聴いたもの
Gawr Gura - REFLECT
VのサメことGawr Guraさんの初オリジナル曲。City Pop Sharkを自称してVの世界に現れたGuraさんであるから、やはり念願かなってのオリジナル曲はシティポップで行くのだろう……とプレミア公開に臨んだのだが、蓋を開けたら壮大なストリングスとアラビア音階で煌びやかに飾ったダークなテクノポップが流れ出し、日本語のラップまでこなしていてひっくり返ってしまった。
そしてこの曲がとてもかっこいい。シリアスかつスケールの大きいバックトラックに乗るGuraさんの歌声も、日頃の歌枠で見せる歌唱力をばっちり発揮している。楽曲は一般的にテンポが遅ければ遅いほどシンガーのグルーヴ感とスキルがはっきり出る。慣れない日本語のラップで遅いビートを乗りこなすリズム感、その後のサビ前のビブラート。サメは膨れ上がった期待に対してそれをさらに超えるものを出してきた。
楽曲がシティポップでなかったことに関しては、ミームの消費期限の限界というものもあっただろう。シティポップシャークの再生産の限界を、Guraさんは誰よりも強く感じていたのだと思う。その証拠に、Guraさんはここ数か月、メン限も含めて歌枠でシティポップをほとんど歌わなくなっていた。もうミームに頼る時期は終わり、これからはVTuberとしての実力で王座に君臨する。Cutenessだけでなく、シリアスな楽曲でGawr Guraという人物の厚みを見せつける。この『REFLECT』にはそうしたGuraさんの意気込みが感じられる。
緑黄色社会 - ずっとずっとずっと
緑黄色社会(略称リョクシャカらしい。誰か使ってるのか?)の新曲。ずとまよを多少太くしたかな、くらいの音。そんなに好きではなかった。嫌いになる要素があるのではなく、パンチがないとか、そういう感じの。ミュージシャンシップがもう少し欲しいのかもしれない。
東山奈央 - グー
かいりきベア作曲ということで聴いてみた。かいりきベアってこんなにうるさい曲作れるのだな。一昔前のパラダイムにおける「ボカロ曲」っぽさをわざとなぞっているようなテンションで進んでいると思うと、サビで突然つんく♂みたいなメロディラインになる。楽曲全体を通して合いの手が賑やかで、聴いているととにかく気分が上がるのがいい。でかい声は出せば出すほど得をする。奇声をあげろ!
長谷川白紙 + 諭吉佳作/men - 巣食いのて
今年聴いた中で一番聴いてて落ち着かない気分になる曲。1分くらい聴いたところでドラムンベースのリズムに身体が慣れてきて気持ちよく乗れるのだけれど、そこからの展開が本当にめちゃくちゃで、ほとんど無軌道に振り回される。インダストリアルなビートの中を淡々とメロディが進行していく様は楽曲として破綻するギリギリを測っているようで、一体何を聴いているのかという気持ちにさせられるが、そんな聴き疲れた瞬間にふっと楽曲が静かになり、やっと一息と思った瞬間またカオスの中に投げ出される。そんな曲。
長谷川白紙の曲は一回聴いたくらいでは全然わからない。ほとんど不快に近い。しかし何度も聴き込んでいるうちに耳が慣れてきて、様々な「聴かせる」工夫に気付くことができる。大学生になってある程度耳が出来上がって以来、「聴き込む」ということをほとんどしてこず、自分の身体に合う音楽ばかり聴きすぎたせいで、こうした「タフな曲」に全然免疫がなくなっている。今後長谷川白紙の曲は分かるまで聴こうと思った。
クリームソーダとシャンデリア feat.ねんね - mei × Henrii (Cover) / KMNZ
正気でやってるのか?と思った。パフォーマンスはもちろんいいのだが、問題は歌詞内容にある。選曲もこれまでの選曲からすれば毒気がまったく抜けていて、ただ惚気を聴かせたいだけとしか思えない。事実惚気を聴かせたいのだろう。女二人がいちゃついていると嬉しい気持ちはあるが、それでもどうしても言いたい。何なんだ?