雑記

__blurry_のおぼえがき

6/20

出来たこと

☑ 荷造り
☑ 集荷
☑ ラジオ体操
☑ 床掃除
☑ クリーニング
☑ 洗濯
☑ ランニング

雑感

亀と岩について

 ランニング先にある川を覗き込むと、いつも同じ場所に亀がぷかぷかと浮かんでいる。それを見るのがランニングの楽しみなのだが、今日ふと覗き込んでみたら、それは亀でもなんでもない、水面に突き出たただの岩だった。呆気に取られてしばらく見つめていた。

『映画大好きポンポさん』について

 上映期間の延長がアナウンスされた。Twitterで広まった漫画と、主題歌がDUSTCELLであることしか知らないのだが、北海道に帰ってからゆっくりと観られそうで嬉しい。

嫌な言葉を言う人について

 一時期Twitterではフォロワーの人生に対してとにかく否定的な言葉を浴びせるのが流行っていたように思う。具体的には狭小邸宅botの有名なこれの悪意的なバリエーションが様々なアカウントの口から発せられていた。


「この人なんでこんなに嫌なことばっかり言うんだろう」と思いながら、こういう言葉を真っ向から受けとめてはひどく落ち込んでいる年月があった。当時一切努力をしていないにも関わらず、未来に対して漠然とした期待感を持っていたというのは否定しない。こういう言葉に対して屈すること、見えないようにすることが何らかへの「敗北」だと、無理をして否定的な言葉をいくつも飲み込んでいた年月だった。
 しかし今考えれば、嫌なことを言う人はそれ以外の部分でどんなに良いことを言っていようが、嫌なことを言う人は単に「嫌なことを言う人」以上でも以下でもない。自分が成すか成さないかとか、未来について考えることには一切意味がないのだから、そんなことに横から口出しする人はその予言の成否に関わらずただ人を不愉快にし人の足を引っ張っているだけだろう。
 彼らが面白いと思っていたのか、何か滑稽さのあるネタだったのか、それとも本当にフォロワーを憎んでいたのかはわからないままだが、今の私は彼らを心の底から嫌うことができる。やっと。

余談:要するに自分は思春期的な問題系から抜け出すことができたというだけの話かもしれない。とくにスマブラを始めてからこういう問いが本当にどうでもよくなった。Twitterの外側に自分の世界を持つのは大事。

saize-lw.hatenablog.com

解像度について

 昨日スタァライトを見てから様々な感想記事やふせったーを見て回って「へ~そういうことだったんだ~」と感心している。映画へのアクセスもほぼままならない状況にあり、二度目を見られる可能性はほとんどないし、そもそも自分が映像を読む能力が低いのは明らかなので、あの情報量の多い映画を一人で読み解くことは早々に諦めてしまっている。「他人が書いた記事の方が自分の読みより面白い」というのはある意味では当たり前でもある。記事が書けるほど読み解いているのだから。
 さておき、「解像度が低い」という言葉を嘲笑的な文脈で目にするたびに、人の能力の低さってそんなに簡単に笑いものにしていいんだっけという気持ちになる。それはもちろん解釈は正しくできるに越したことはない。しかし、それは本当に考えれば誰でもできるというものだろうか。

 目の前に壁があるとする。ボルダリング用の壁で、あちこちから出っ張りが突き出ており、掴めそうなものもあれば、小さすぎたり、これは逆さまではないかと首をひねるものもある。
 ボルダリングの技能は、垂直な壁を登るための筋力と握力、そして出っ張りの形からルートを見出す推理力に大きく分かれる。この三つが揃えば、適切なスタート地点を選び、垂直方向に登り、無理のない運動でゴールまで辿り着くことが出来る。
 壁を登れない人間に向かって「なぜ登れないんだ、そこに取っ掛かりがあるだろう」と責め立てても、登れない人間は無数の取っ掛かりのうち、どれが登るために有用な取っ掛かりなのか見分けがつかない。そこに取っ掛かりがあると気がついたところで、筋力がなければ身体を上に運ぶことは出来ないだろうし、一歩登った先にはまた無数の奇妙な形をした取っ掛かりが待ち受けている。そして一歩目の取っ掛かりが正しいという保証はもちろんない。登っていったらいつの間にか壁の右端に到達していて、ゴールは遥か遠く左上、ということもある。
 筋力ならば鍛えればものにはなるだろう。しかし、思考力では? 作品の無数のポイントから取っ掛かりすなわち問いを立てる能力は? 理解不能な形をした取っ掛かりを手がかり足がかりと解釈するための訓練とは?
 これはインターネットの作品解釈についてだけでなく、陰謀論についても同様に感じる。難解な作品を解釈する記事を読むように、ふせったーを読むように、理解できない事象、取っ掛かりの見つからない事象に対して、分かりやすいストーリーを提供し、説明を与えてくれるものに思考を外注することは、心のまったく自然な動きだと思う。
 人々が愚かな人を憎むにもそれぞれに過去があるのだろうし、一概に言えることなどほとんどないと分かりつつ、それでもやはり……とこうして何度も考えてしまう。私も陰謀論者には散々嫌な目に合わされた私怨がある。

余談:自分の解釈が不確かであると心の底から認めつつ、他人が自分と異なる解釈をしていることに怒り狂うことは可能なんだろうか。

余談2:現代文の成績がとても悪かったので、国語の成績が良かったと自慢できる人を見ると普通に羨ましくなる。どうやって勉強していたんだろう。

ポルノグラフィーについて

 性的な絵をlikeすることに関して、likeした絵がTwitterの機能で晒されることに抵抗を感じてブックマークに保存している、という層はある程度いると思うのだけれど、個人的にはそこは一度乗り越えてしまえばもう痛くもなんともない気がする(知らないが)。それよりも、「二次元ポルノグラフィーの趣味が悪い」と思われることの方がよっぽど耐えがたいし、そうはなりたくない……という気持ちがある。
 二次元ポルノグラフィー作家は一切フォローしていないし非公開リストにも入れていないのだが、配信者と繋がっていることもあるし、そこからしか得られない情報というものの存在が先日明らかになって(手picの女)、ちょっと参っている。もちろん答えは「やるしかない」なのだが……しかし……。

ゴキブリについて

 先日初めてゴキブリを見た。家の中ではなく、夜の表参道を歩いていたら小柄なのが一匹通りを歩いていた。「言うほど怖くもないな」と思った。一緒にいた友人にそう伝えると友人は「これよりでかいのがカサカサ音を立てながら部屋を動き回る」と主張した。私は部屋では常に音楽をかけているためそのカサカサ音は聞こえないだろうけれど、これよりでかいのが飛び回ったり、死体処理があるのは嫌だな……と思った。ディスコのエナジーはゴキブリを片付けるだけの気力を与えてくれるだろうか。その時のためにもディスコアンセムを蓄えておくべきかもしれない。

良いツイート

 こういう気持ちがずっとあるので「かわいい」という言葉に抵抗があり、代わりに「愛らしい」という言葉を使うようにしている。

聴いたもの

Brain Power - Optimistic

 Nervous Recordsのリリースには本当にはずれがなくて、なんとなく手持無沙汰だな……とかやる気が起きないな……という時はこのレーベルの過去のリリースを掘ると瞬く間に楽しくなる。これはちょっとすごいことである。流行りすたりの早いダンスミュージックシーンで、1990年設立のレーベルの音が2021年でもまだかっこいいということはそう滅多にはない。
 曲の話。私がこの曲を知ったのはDazzle Drumsの名ミックス「Music of Many Colours」に収録されていたZepherin Saintのバージョンからである。

 その時はまあいい曲だなくらいにしか何も感じなかったのだが、今日ふとNervousを掘っていて同名の楽曲に行き当たり、聴いてみるとZepherin Saintのバージョンより断然よかった。Nervousしか勝たん。
 ではオリジナルのバージョンはどちらなのか、それとも元ネタがあるのかと気になって調べてみたところ、ゴスペルグループSounds of Blacknessの1991年の楽曲がオリジナルだった。これはR&Bというかブレイクスというか、いかにも90年代NYCという感じの音。
 Brain Power版はなんと2021年リリース作品だった。Nervous Recordsから配信されるメールは過去作品のDL配信と新譜リリースのアナウンスが全く分かれていないため、メールを読んでも新譜なのか旧譜なのか区別が全然つかない。こんな古い曲を今リリースするとは思えないし、これも90年代のダンスクラシックなんだろうな……と考えていたのだが、Discogsには確かに2021年リリースと書かれていた。クラシックが現代の感性によって過去のバージョンを乗り越え、継承されていくのはとてもいいことだなと思った。

KMNZ LITA & VESPERBELL ヨミ - ママム(MAMAMOO)(Cover)

 最近YouTubeで音楽を聴いていたら絶対これに飛ばされる。何なんだ?
 さておきKMNZのLITAさんと同レーベルの後輩VESPERBELLのヨミさんの二人によるKPOPカバー。LITAさんはヒップホップと女が大好きなので(事実)、先輩から誘って実現したコラボと見るのが自然だろう。ヨミさんは2000年代のミクスチャーロックやデジタルロックのリスナーでありシンガーなので(これを書いている時点でヨミさんのフリートを見たらLinkin Parkの『Numb』のスクショだった。筋金入りだ)、こういった企画でもなければあのハスキーな声でポップソングを歌うところは聴けない。実際その低い声の存在感はLITAさんのラップに全く負けていない。歌い出しの、"All I wanna be is 멋짐 "내 마음대로 골라 kick it 머리 어깨 무릎 다 HIP 해"のえぐみはヨミさん以外のシンガーではほとんど出せないだろうし、歌い出しにヨミさんを持ってきた時点でこのカバーは成功していた。

 これはバレンタイン企画でVESPERBELLの二人がチョコレイト・ディスコをカバーした動画。ヨミさんの声のかすれにオートチューンがかかってディストーションのような効果が出ているところが好き。ちなみにヨミさんは頻繁にエゴサしているらしく、HIPについて言及したら1時間以内に本人からlikeが飛んできた。

 柊キライのラブカ?。この声でゴシックなエレクトロスウィングを歌って合わないわけがない。こっち方面の展開が増えてくれることを願っている。

Eliane Radigue - Adnos

 Eliane Radigueなるミニマルドローンアーティストの作品。70分以上のトラックが三つ並ぶ大作である。コンセプトはチベット仏教の音色で、曲構成もざっくり言えば低く伸びる鐘の音のような音が70分間続く以上のものではないのだが、そのほとんど単色の音色に含まれるニュアンスの豊かさが尋常一様ではない。調和していない複数の音の「濁り」がスピーカーから発せられることで物凄い圧をもって迫ってくる。これはイヤホンで聴いてもほとんど理解できない。複数の音がスピーカーから発せられて、中空で混じり合ったものを「遠くから浴びる」、という鑑賞を前提に制作された音楽だからだ。
 これをしばらく聴いていると音楽に「黙らされる」ような感覚が生じてくる。ミニマルな音楽の多くがそうであるように、次第に肉体から精神が浮遊していく。ダンスミュージックはアッパーな方向にオーディエンスを誘導するが、『Adnos』は物凄い重力をかけてオーディエンスを釘付けにし、瞑想することを求める。休日に贅沢な時間を過ごしたいとき、何か集中して作業をしたいとき。『Adnos』は聴き終えるまで一切の逸脱を許さずリスナーに圧をかけ続ける。

山神カルタ - オノマトペ(cover)

 浮遊感と情念を行き来するエキゾチックな楽曲のカバー。低音でビートを乗りこなすヴァースも、「おのれおのれ」から一気に感情を乗せて歌い上げるサビも山神さんのキャラクター性とマッチしていてよかった。