できたこと
- 洗濯
雑感
ちょい華金
金曜の夜なので外に出てビールを一杯飲んだ。一人で飲むなら中ジョッキ1杯もあれば充分。
卒業発表
日がな降っていた雪まみれになりながら帰宅し、ふとホロライブの沙花叉クロヱさんの重大発表があったのを思い出して配信をつけたら卒業発表で仰天した。理由は会社の方向性と自分のやりたいことが合わなくなってきたことに加えて、稼働の増えすぎで身体を壊したため。今後のことは未定とはいえ、自分の人生を考えての卒業という。
この頃は配信は見ていなかったとはいえ、歌ってみた動画やオリジナル曲は欠かさずチェックしていた人だった。この歌声が当分聴けなくなることが本当に残念。
公式からの発表によると卒業ではなく「配信活動終了」で、将来のイベントでスポットで顔出しできる機会を残しておくということらしい。アメリア・ワトソンさんに続いて二人目の例となるが、特にタレントに拘束を課すものではなく、ホロライブ側の希望として提案されたものであり、そうであるからには円満な話し合いができたのだろう。逆にこういった選択肢が提示された中で「卒業」する配信者が出てきた時には様々な憶測が生まれるようにも思う。
こうした検討の中で、新しい「卒業」の一つの形として辿り着いたのが「配信活動終了」です。
「配信活動終了」は原則として「卒業」の一つの形であることには変わりません。
タレントによるYoutube、SNSなどの配信活動やイベントへの参加などは終了します。その上で、将来のプロジェクトにおけるプロダクションの思いと、タレントの意思の合意によって、偶然タイミングの合った卒業生が母校に顔を出すかのように、今後も限定的な形での活動をお届けする機会を願う取り組みとなります。
https://note.cover-corp.com/n/ne3a8b7a553c0
その後に続く歌枠も聴いていたのだが、Prisoner of Love→だから僕は音楽をやめたという冒頭二曲に感情をやられてしまった。
配信中でオリジナル曲のMVが告知された。いなくなると分かったからなのか普段響かない曲調なのに妙に良く聞こえる。三周年記念グッズも欲しい。
SNS中毒
Twitterに時間を注ぎ込みすぎている自覚があったのでスマホアプリに時間制限を設けた。とりあえず二時間で設定して、減らせそうだったら一時間半、一時間……と徐々に抜けていければよかったのだが、このところ毎日のように二時間を使い切ってしまっている。それどころか日が変わって使用時間がリセットされた途端にまた触り始める始末。どうかしている。
サンタシーズン
クリスマスが近いので親向けのクリスマスプレゼントを見繕っている。父親にはiPadを贈るとして母親には何にしようか……。手袋かキャンドル、もしくはキャンドルホルダーでも贈りたいところ。キャンドルホルダーと燭台が同じものなのかそうでないのかも分かっていないレベルなので、まずはリサーチから始めなければならない。
この前家族仲の話になった時に私が頻繁に家族と会ったり贈り物をしていることについて驚かれてしまった。親がいつか死ぬということを考えていたら親孝行をしないではいられないのだが、そういう感覚は他の人にはないらしい。友達も少なければ交際相手も結婚の予定も何もなく、その上地元に残ることを自分で選んだ人間だから当然そうなるという話もある。
これが30年前の曲だなんて
— 大沖活動 (@daioki_katsudou) November 27, 2024
大沖活動が年一で再掲しては物議を醸す漫画がまた流れてきた。私は今まで年下の側に共感していたのだが、最近はちょっと考え方が変わってきている。なぜかというとシティポップリバイバルがあったから。
シティポップやY2Kなどリバイバルムーブメントが発生するのは別にいいし、(Y2Kは苦手であるものの)シティポップから始まるジャパニーズニューエイジ・フュージョンの再発の流れについては私も楽しく聴いた。しかしこういった音楽が"最新のモード"としてもてはやされているのを見ると、流行の中心にいる二十代前半こそが「逆に新しい」というレトリックで実質的に「古さを感じない」と同じことを言っていそうな印象が生じてしまう。
リバイバルムーブメントが明確にリバイバルつまり"過去の参照"として意識されているさなかでは、前述の漫画のような「古さ」だけに着目するやり取りはもはや生じ得ないように思うし、20年前の曲と今の曲の区別がぱっとつけられないということも起こりそう(年上側の「古さを感じない」発言は今も昔も明確にダメ)。何なら年上の側が年下の感性の"古さ"に気がつくことも増えつつあるだろうとすら思う。
VTuberの歌ってみた動画や歌枠で、昔の名曲が全然好意的に受け入れられているのも付け加えてもいい。キリンジ『エイリアンズ』の発表は2000年で、『若者のすべて』も2008年。これらの発表は『ワールドイズマイン』『チルノのパーフェクトさんすう教室』といった"インターネット老人会"と評される楽曲以前である。月ノ美兎さん・周央サンゴさんが取り上げた青葉市子『いきのこり●ぼくら』でも2013年と10年以上前。リリース日だけ見れば古いも古いと言わざるをえないが、そこについていちいち指摘する人は観たことがない。これは実質的に古い楽曲であっても、"古い"という記号で認識されていないからだと思っている。
"若者"が肌感で絶対的な"新しさ"を理解しているということ自体が幻想なのだろうけれど、なんかインターネットの威勢のいい人達がとかく上の世代を"老害"などと呼びつけては自分たちの感性のフレッシュさを称揚していたのを思い出し、何だったんだろうと思いながらだらだらと書いてしまった。
個人的には古いものの中から現代的目線での面白さを取り出す営み自体は全然楽しいのだが、それはそれとして自分が「古さ」に手を染めていることを忘れたことはないし、その「古さ」を引き受けないことの方がよっぽど見苦しいのだとは肝に銘じておきたい。
今年高く評価されていたGeordie Greepの作品なんか普通に古いというか、アーカイブを参照することに何の躊躇いもないところがある。このサウンドを「新しい」とか言い張っても仕方がない。つまりはそういうことを言いたい。
聴いたもの
mus.hiba - White Girl
その筋では有名らしいボカロP、mus.hibaの作品(ただし使っているのはクリプトンの"ボーカロイド™"ではなくUTAU)。2014年に東京のレーベルnobleからリリースされ、のちにOrange Milkからカセットで再発された。
00~10年代エレクトロニカ、トラップ、LAベース、グリッチといった多彩な要素が取り入れられ、各曲ごとに違う表情が見えてくる。ボーカロイド/soundcloudシーンのカジュアルさからなのか必ずしも"硬派"な音楽性にこだわらず、スーパーソーによる強烈な高揚感まで煽る展開もあって、チルからアッパーまでを包括する自在な音楽性がとても新鮮な作品だった。とは言っても風呂敷をやたらに広げるような感覚はなく、どの曲にも中心には柔らかくユーフォリックな情感と、雪歌ユフによる冷たく囁くような合成音声の歌声が据えられて、アルバムとしての統一感が保たれている。10年代のポップ~アンダーグラウンドの電子音楽を違う角度から総括しつつ、ユーザーの少ないボーカロイドによる作家的な記名性が両立した作品でとても気に入った。
Astor Piazzolla & Su Quinteto - Concierto En El Philharmonic Hall De Nueva York
邦題『ニューヨークのアストル・ピアソラ』。black midiのサードを聴き直していて「これはタンゴだ」と思い、もっとタンゴが聴きたいと思って勢いで買った。ピアソラが生涯をかけて探求したキンテート(五重奏団)構成によるニューヨークの録音で、多作で知られる(知らなかった)ピアソラの全ディスコグラフィーの中でも屈指の傑作らしい。
タンゴにもピアソラにも明るくなく、ベスト盤を一枚聴いただけの自分にはこれがどの程度のグレードの作品なのか判定することはできないが、バンドネオンの決然としたメロディ、ストリングスの不協和音をためらわないポルタメントの緊張感、ピアノの優美なタッチといった楽曲を構成する要素の一つ一つの冴えは明らかに感じられる。背筋の伸びるようなエレガンスとアルゼンチンの都市の憂愁、そして何よりも濃厚なロマンティシズムが共存するサウンドは、未だ過去とならない新鮮な響きがある。
なお作品には関係のない話だが、ニューヨークがスペイン語で"Nueva York"になるのはかっこよすぎる。
読んだもの
今日は特になし。