雑記

__blurry_のおぼえがき

6/20


できたこと

  • 早起き
  • 洗濯

雑感

月報

 ついに20日間一度も日記を更新しなかった。理由は明らかに新譜を聴くことに没頭していたから。書く以外で実のあることに没頭できていたのならそれもよいのではないかと思う。ざっくりと良かったことは以下。

  • トップガン・マーヴェリック』を見た。パワフルでマッシブな傑作
  • シーシャを吸いに行った。友達がドハマりして遊びに誘う口実が増えた
  • 高級布団を買った。保温性が高くてすごいが暑い
  • かわいいパジャマを買った。かわいい
  • 芸術の森で開催されたフェス「しゃけ音楽会」に行った。青葉市子とどんぐりずとサニーデイ・サービスは最高
  • ブルーナが増えた。積むと崩れる

  • 相互の人が出しているアクリルキーホルダーを買った。絶対に触れられないものの似姿が平板に宿っているのは具体物と象徴性が一致していて好ましい
  • 机を買った。勉強をするぞ

"実質"の実質性

 以下性に絡んだ話をする。別に私の経験談でも官能小説でもないにせよ。

 手を繋ぐことは実質性行為である、という言説をたまに見かけるのだが、その"実質"はどの程度実質なのだろうとふと気になった。個人的にはそれは言い過ぎではないかと思うのだが、性行為に際して最もクリティカルなインターフェースは手であるという人もいるだろうし、経験則あるいは演繹的な結論に基づいて手を繋ぐことを性的に感じているというのも可能性として充分あるとも思う。
 理屈自体は分からなくはない。手は人間の外界との交渉を文字通り一手に引き受けるインターフェースである。以下に清岡卓行『手の変幻』からの一節を引用する。

腕というもの、もっときりつめて言えば、手というものの、人間存在における象徴的な意味について、注目しておきたいのである。それが最も深く、最も根源的に暗示しているものはなんだろうか? ここには、実態と象徴のある程度の合致がもちろんあるわけだが、それは、世界との、他人との、あるいは自己との、千変万化する交渉の手段である。いいかえるなら、そうした関係を媒介するもの、あるいは、その原則的な方式そのものである。(清岡卓行『手の変幻』より「失われた両腕 ミロのヴィーナス」(講談社文芸文庫))

 手は人間が他者に触れ、コミュニケーションを取る手段であり、同時にコミュニケーションの象徴でもある。あらゆる他者への接触はコミュニケーションを生じる。それが意図的なものであればなおさら。
 ここで相手を人物に限定したとき、もちろん触れる箇所によって意味合いは様々に変わるのだが、前述の手の実態と象徴により、手に触れることは他の箇所とは異なる特別な意味合いを帯びる。まずは実態として、自分の手が相手に交渉を仕掛けるインターフェースであるのと同様に、相手の手も自分に働きかけるインターフェースであるから。手を繋ぎ、その手の形、インターフェースの形を手指の鋭敏な触覚によってつぶさにあらためることは、自分に触れてくるものの形を確かめること、つまり自分に触れてくるものの大きさ、形、肌触り、温度などに思いを馳せることである。コミュニケーションの象徴としても話は同じで、手を繋ぐ時、自分が相手の手に触れているということは、同時に相手の意思によって自分が触れられているということでもある。ここには触れにいく主体性と、触れられる受動性が同時に存在する。
 そして当然、手を繋いだだけで終わりではなく、そこから生じたコミュニケーションが継続する。触れたこと、触れられたことによる反応があり、その反応に対して新しい反応やアプローチが返る。それを性行為に直結するのは、理屈上不自然なところはない。

 それはそれとして、やはり個人的には性行為が手という局所的なフェチズムだけで完結する営為ではないと思う。人間は別に手だけの生き物ではなく、数十キロもある肉体の重みであるとか、汗ばんだ肌の幅広いふれあいであるとかいったような、身体情報と全身のセンサーをくまなく使う、その全体性を伴ったコミュニケーションこそが性行為の性行為たる所以であろうと思う。…………とはいえ、私自身には性交渉の経験がないので、全て想像に過ぎないと言ってしまえばそれ以上のことはない。ただ私がそう思っているだけである。だから興味がある。手を繋ぐことが本当に性行為のジェネリックたり得るのかどうかについて。

父の日

 日曜日は父の日だったので一緒にご飯を食べに行った。当日になって母親も来るとメッセージが飛んできた時は正直げんなりしたものの、まあ三人でご飯を食べ、ついでにショッピングモールに買い物に出かけ、幾ばくかの金銭を包んで心遣いに渡した。
 結局のところ父親が好きなのだと思う。好きではない部分も不愉快なエピソードも少なからずあるのだが、トータルでは好きということになっている。だから19日はまだ賞与が出ていなくて、心遣いを包むために貯金を崩す必要があり、その日は精神的にはかなりひもじかったのだが、それでも渡しておきたいと思ったし、渡したことには満足感がある。それは自分の中のパターナリスティックなところとも繋がっている気がする。

婚姻

www.asahi.com

国側は、憲法24条が「両性の合意のみ」で婚姻が成立すると定めている趣旨について「男女を表すことは明らかだ」と反論。婚姻制度の目的は「一人の男性と一人の女性が子どもを産み、育てながら共同生活を送る関係に法的保護を与えること」であり、同性婚は該当しないとした。

 また、憲法14条と立法不作為については「憲法同性婚を想定していない時点で問題は生じない」とし、原告側の請求を棄却するよう求めていた。

 国はそう言うだろうなと思った。裁判所の判決文は以下。

www.huffingtonpost.jp

 原告の主張が「憲法n条に反している」というものであった以上、裁判所も憲法の成立過程とヘテロセクシャルな時代背景を読み解いた上で、あくまで憲法の歴史的解釈というヘテロセクシャルが支配的なゲームの上で判断することは自然の成り行きという気がした。裁判所を機械視しすぎしているだろうか。
 正直なところシンプルに頭が悪いのでタイムラインで見かける言及にも感情にもあまりついていけていない。判決文を読む限り代替制度の用意を含めた立法府での議論や、世論への浸透を待とうみたいなことが書いてあって、同性婚について裁判所が明確に否定したとは読めないので、いずれは同性婚も通るだろうと思うのだけれど……しかしそれは自分が"いずれ"を死ぬまで待っても困らない(婚姻制度じたいの)非当事者だから言えることだろう。さておき、裁判でダメなら選挙に行って立法府同性婚の議論を推進する議員を議会に送り込もうとしても、そもそも性的"少数"なので選挙戦略的には後回しになる、よって議員数は必然的に減るし実現の見込みも薄くなる……というような負の循環が思いつき、それで裁判なのか、と納得した。
 あと一押しなのではないかという気もする。インターネット上の言及にもある通り、DINKSの世帯数は増えているし、そうでなくても様々な理由で子どもを持っていない家庭もある。裁判一個ごとに突破口は増えているように思われる。
 議論を見た上で自分でも少し考えたのだが、自分にとって婚姻が何を意味するのか全然分かっていないことに思い至った。制度的優遇が存在するというのは分かるが、それ以上の情緒的意味は自分以外の誰かがこう言っている、くらいにしか思われないし、その自分以外にしても自分の血族はほぼ全員が婚姻によって不幸に陥っている。婚姻というものは情緒・宗教(儀礼)・社会・行政という四つに絡んでいて、論じる上ではどれ一つ欠いてもならないのだが、情緒の面について全く共感を欠いていて議論に参加する意欲が出ない。私はおそらく根本的には反婚姻の立場である。同性婚については知り合いが当事者であるし、やはり不平等だろうという情緒的な考えがあるから賛同しているが、結局のところ連帯というほどにはならないだろうなと思った。

楽しみなアナウンス

良いツイート

聴いたもの

Automatisme - Statique

 カナダのミュージシャンWilliam JourdainがForce Inc. / Mille Plateauxからリリースした作品。トラックはアンビエントダブテクノの脈動をアトランダムに揺らした「Ultra-Scape」と高速クリック&カッツ(グリッチ)の「Ultra-Rate」の二系統があり、それぞれ不規則なナンバリングを持っている。前者は現行のダブ・アンビエントの融合、後者はNyege Nyege Tapesから出ているような高速シンゲリを2000年代からあるグリッチエレクトロニカサウンドで解釈したような、歴史性と新規性を折衷したサウンドでとてもかっこいい。絶対に誰かが言及すると思っていたのだがどこからも出なかった。時局を読むセンスがない。

Crackazat - Evergreen

 スウェーデンのマルチミュージシャンかつハウスプロデューサーのCrackazatによるフルレングス。Crackazatらしいジャジーな浮遊感のあるコード進行のハウスが並び、ずっと踊り続けることができる。
 ハイライトは"Everybody Talks About It"で、フックで登場するホーンセクションの突き抜けたサウンドが凄まじく気持ちいい。ハウスミュージックの気持ち良さはこれを聴けばわかる。この曲はアルバムリリース後にリミックスEPが発表されたのでそちらも楽しみ。

読んだもの

 今日は同性婚の議論を読んでいた。