雑記

__blurry_のおぼえがき

9/25

できたこと

 今日は何もなし。土曜日は何もしない。

雑感

親ガチャ

 ようやくワクチン接種を予約できた。副反応があるらしいので当日・翌日は家で安静にしていたいのだが、そういうわけにもいかない。母親が反ワクチンの陰謀論者であるからだ。

 「親ガチャ」という言葉がこの頃話題になっている。感覚的には何年も前からそういった言葉はあったように思うのだが、ついにインターネットスラングから表に出てきたものらしい。要するに親の経済力や暴力性向などの各種パラメータは子の側から選択することができず、その「引き」によって人生が左右されてしまう、という考えをガチャになぞらえたもの。

 日頃はそういう考え方をしないのだが、コロナ禍と、「ワクチン接種で激しい副反応が出ても休める場所がない」という現実を前にして、正直なところ「これはちょっと引きが悪かったな」と思った。同じ家に住むとはそういうこと、他者のダーティな面を含めた全体性とともに生き、自分の行動を変容していくこと……という考え方ができたらいいのだが、私にはまだ難しいし、だいいち私が考え方を変えたくらいではこの状況はどうにもならない。何せ私に届いたワクチン接種券を、私が知らないうちに破り捨てていた人間が相手である。向こうが私を責任能力のある主体と見なしていない時、私が何を言えるだろうか?それは母親から見ればAIが「私は人間だ」と主張し始めたようなものではないだろうか?

 あれこれ言っていても仕方がないので話を戻すと、喫緊の課題は平日の昼~夜で発熱した際に布団で安静にしていられる環境である。どうしたものか。

ビッチングと性

アルファ同士のカップルでアルファ攻めがアルファ受けをオメガに転換することができる「ビッチング(bitching)」というものがある。
性的に屈服させられたアルファがオメガになる、お互いがラットの時にアルファ受けのうなじを噛む、アルファが強い感情をフェロモンに載せ、意中の相手の五感から体内に侵入し、愛と執着を体に溶け込ませて自分だけのオメガに変えるなど様々。端的に言えば、アルファが後天的にオメガになってしまうというもの。

dic.pixiv.net

 そういう概念があることを知った。オメガバースに関心はないので知るわけもないのだが、今日一日はそのことでずっとうけていた。

 アルファが後天的にオメガになるというのは、平たく言えば"堕ちる"ということだろう。bitch化する、すなわち性的に奔放になることを堕落と捉えるのがいかにもキリスト教的で面白いなと思った。

 「性的に屈服する」という表現についても考えていた。屈服というのは、その人の中で自分自身の人間性が与えられる官能よりも下位に置かれてしまうということだろうが、そんなことが現実の世界でありえるだろうか?あるのか?

 これは「させたことがある」も加えた方がいいかもしれない。

 さておき、「それでは性的とは何か」ということにも考えが及んだ。個人的には、その人をその人たらしめているものを一度轢き潰して更地にしてしまって、そこに外部の原理と記号群からなる系を建てるさま、あるいはその過程に"性"なるものを感じる。話を進める前に言っておくが、「性的であると思う」と「私が興奮する」は必ずしもイコールではない。

 たとえば、「胸がでかい」とか「肌の露出が多い」とか、もっと言えば「女体である」とかいったように、ただ記号的に他者へ訴求すること。そこでは内面性やバックグラウンドを敢えて棄却し、無数の記号と既存のコンテクストの塊としてのみ訴求するという態度があり、本来もっと尊重されるべきものを、即物的なもののために自ら手放す、そこに"性"を感じる。話が逸れるが、宝鐘マリンさんなんかはこれをハックしたようなスタイルでやっていて、清濁の併せ呑み方に関心した覚えがある。

 話を戻す。これは官能だけに限った話ではなく、静かなコンテンツを出していた人が一度バズって以降方向性をがらりと変えるとかいったことも含まれる。それは承認欲求に魂を焼かれ、そのまま数字のゲームに身を売り渡すということであるから。具体例としては以下の人物が挙がる。数字が伸びた時点から、明らかに受けを狙って動画が「記録」から「表現」に変質していることが分かる。

 類似例としては、高潔な理想を持っていた人が、非情な現実に打ち砕かれ、「社会」に取り込まれてしまうとか。これは"悪堕ち"という既存のジャンル名がある。
 また、ある人物Aが、別の人物Bとの交流を重ねる中で、Aとは全く異なる人物Bの考え方や癖、ファッションなどをどんどん取り込んで別人のようになっていく様とか。私が『abさんご』を性的だと思うのはこの理由による。

  逆に、全く"系"に抵触する内面性を持たず、外形的にもそうでない人に、敢えてそのような記号を押し付けるという態度がある。これはコンテクストを読み取った上で敢えてそれを轢き潰すという、はじめに述べた操作を外部から行ったもので、一言で言えば冒涜であるが、冒涜であると了解した上で、それでも楽しいのだから始末におえない。これを突き詰めていくと[飛浩隆『グラン・ヴァカンス 廃園の天使Ⅰ』](https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%82%B9-%E5%BB%83%E5%9C%92%E3%81%AE%E5%A4%A9%E4%BD%BF%E2%85%A0-%E9%A3%9B-%E6%B5%A9%E9%9A%86-ebook/dp/B00GJMUTBS)になり、私はこの作品がとても好きである。そういった冒涜的鑑賞態度が楽しいのも分かる。そちら側につくつもりはないにせよ。

 例示はいくらでもできるが、やったところで私の趣味の悪さが露呈するだけなのでこれ以上は書かない。以下はこれを書いている最中に思い出した曲。

www.youtube.com

良いツイート

 今の収入からさらにマイナス三万……と考えると厳しいものがある。本当に暮らしていけるだろうか。

聴いたもの

 今日はエクスペリメンタルの日。

Nurse With Wound - Spiral Insana

 ノイズ・コラージュの大御所(らしい)Nurse With Woundの作品。エクスペリメンタルアーティストのコラージュなので当然規則性は読めないのだが、全く想像の埒外から音を接合しつつ、ちゃんと一つの世界観を持ったかっこいい音のまとまりとして聴かせてきて面白かった。また、ノイズとしても、そのコラージュの間隙を埋めるように一定のギターノイズが鳴り続けており、その持続の仕方にドローン的な感性が光っている。シンプルにかっこいい。

Noah Creshevsky - The Tape Music of Noah Creshevsky, 1971-92

 磁気テープの切り貼りによってコンポジションを行うテープ・ミュージックアーティストNoah Creshevskyの日本企画コンパイル盤。今の言葉でいう「エディット」「サンプリング」であり、手法としては世にあふれて久しいが、ここで聴けるエディットは80年代にアカデミズムの観点からアプローチされたもので、一聴しただけでは到底理解しがたい過激さがある。
 コラージュはかなり不規則であるが、根底の部分には独特のユーモアがあり、スリリングでありつつもどこかくだけた雰囲気が楽しい。本当に意味不明な曲もあるが、それもコラージュ音楽の愛嬌だろう。

Luc Ferrari - Presque Rien

 ミュジーク・コンクレートの大家(らしい)Luc Ferrariの作品。傑作ということでスピーカーで聴いてみたのだが、音量が足りなかったのかスピーカーの性能が足りなかったのか、音らしい音が全然感じ取れなくて途中で飽きてしまった。いずれ音量を上げて再チャレンジ。

 以下一言だけ。

 mockingbirdravelleさん(異常にアコギが上手い人)の新作。アコギが上手すぎるしグルーヴ感も満点。打ち込みの音色も良い。

 goatなるバンドのライブ。ミニマリズムの極致のような音でめちゃめちゃかっこいい。

読んだもの

news.yahoo.co.jp