雑記

__blurry_のおぼえがき

9/17

できたこと

何もなし。有給日は有給を取っただけで充分。

雑感

総崩れ

 起きたら九時半を過ぎていた。昨日寝たのが午前二時を過ぎていたので、起きたところでひたすらに眠く、午前がほぼ丸つぶれとなった。
 体調はまだ回復しない。味覚はまだちょっとベール越しの感じがするし、体温の調整がおかしくなっていて変に汗をかいたり暑くなったりする。四連休は不調の始まりとなった。
 眠いまま本屋に出かけ、中山可穂『白い薔薇の淵まで』を買った。とりあえず興味のあったあとがきから読み始めたところ、角川文庫から出ている作品を除いて自分(中山可穂)の作品は全て絶版になっていると何とも正直に書いてあり、確かに中山可穂の作品はこれ以外知らないし本屋で見かけたこともないな……と思った。帯に同性愛小説であることを書いていないのは時代の変化だろうか。
 そのあと喫茶店に移って井筒俊彦『意識と本質』を読み進めた。もう寝不足で眠かったので途中うつらうつらしていたし、諦めて突っ伏して寝たりしていたのだが、それでも、この本は読み進めるほどに凄まじい著作であることが分かってくる。井筒俊彦の凄いところは、とにかく内容は複雑なのだが、それにも関わらず、読めば確実に理解できる。伝達したい内容に対して言葉の選択に全く過不足がない。私が気に入ったのは以下の箇所。

リルケにとって、ものをその普遍的「本質」、すなわちマーヒーヤをとおして見ること、つまりコトバの普通の意味分節の網目をとおして「本質」定立的に認知することは、ただちにそのものの本源的個体性を最大公約数的平均価値のなかに解消してしまうことを意味した。我々がXを「花」と認めるとき、Xはその一回限りの独自性を奪われて、公共化され、画一化される。Xが花であるという形で意識されるとき、XはもはやXという個物ではなくて、どこにでもある無数の花の一つになってしまう。人間の日常的存在世界とは、マーヒーヤの生み出すそのような平均価値の巨大な体系機構にほかならない。この普遍的「本質」の画一化的機構のなかで、あらゆる存在者はそれ自体であることをやめて、共同性の仮面をつける。あらゆるものがここではものではなくて「仮象」(Bild)である。

 これを読んだ時、真っ先に黒田夏子先生の作品を連想した。
 黒田夏子先生の作品に固有名詞、場合によっては一般名詞すら登場しないことについて、語り手固有の記憶や情緒と結びついているものを、わざわざ外側にある名前で呼びならわすことは、語り手にとっての個物の個物性を削ぐだけでなく、語り手の世界にない余計な情緒や連想を読み手にもたらすためであろう、という解釈を取っていたのだが、この記述に出会ったとき、まさにこれだ、と思った。
 私でなくとも、「名付け」という行為やラベリングについて一度ならず考えたことのある人には面白いのではないかと思う。おすすめの書物。

 余談:なぜ井筒俊彦かというとcommmon roomで高頻度で登場するからである。身も蓋もない言い方をすれば、頭の良さそうな人が頻繁に引いているから興味を持ったわけであるが、私だってTwitterでは執拗に作品の話をし続けるという方法で黒田夏子先生を布教しているわけで、考えようによっては出力と入力の仕方が揃っているとも言える。

room.commmon.jp

良いツイート

聴いたもの

RA.797 DJ Pitch

jp.ra.co

 知らない人のDJミックス。
 とにかく「DJが上手い」の一言に尽きる。ジャンル横断的な選曲、緩急メリハリのつけ方、テンションが緩んだと思わせておいて次の展開が確実に用意されている周到さと、DJミックスの楽しいところが凝縮したようなミックス。

読んだもの

 今日は特になし。